17. 兆し
誹謗中傷という言葉は、どこか遠い世界のものだと思っていた。
毎日のようにネットニュースやSNSで見かける単語だけれど、まさか自分に降りかかるとは夢にも思っていなかった。
『この小説クソすぎる』
『買って損したわ 金返せよ』
『リアル感なさすぎ 幼稚すぎだろ作者 キショいんだけど』
スマートフォンを持つ手が震える。
いくつものオンラインストアやレビューサイトで攻撃的なコメントが残されていた。
ユーザー名からしてすべて同一人物。
いざというときのためにすべてスクリーンショットを撮っておく。
——そこまでの言葉を投げつけないと気が済まないのか?
面白くなかったのかもしれないけれど、クソとかキショいとかまで言われなければならないのか?
百歩譲って作品をけなすのはまだしも、作者自身を攻撃するのはさすがに度が過ぎるのでは?
そのユーザーのTwitterのプロフィール欄を見ると、アイコンもヘッダーも初期状態のままで何も設定されておらず、フォロワーはゼロ。
おそらく、捨てアカウントというやつだろう。
ツイートをさかのぼると、プロもアマも問わず数多の小説に対しての文句や罵倒、誹謗中傷ともいえるほどの言葉の数々が目についた。
これでよく非公開アカウントにしなかったものだと不思議で仕方がない。
非公開にすれば許されるというものではないけれど。
世の中にはこういったアカウントも実在するということが身をもって知れた。
ツイートの一つに、ブログ記事へのリンクを発見する。
タイトルからして僕の作品に対する感想らしい。
見てはいけない、と直感的に体が警鐘を鳴らしていたけれど、好奇心が勝ってリンクを開いてしまう。
『ストーリー展開になんのひねりもなくて才能がない』
『文章が平坦すぎて最初の数ページで飽きてくる』
『誰かの作品を盗んできたんじゃないかと思うくらい個性が感じられない』
『少女漫画かよ』
『こんなゴミが銀賞受賞とか出版社も終わってる』
『作者はクソ陰キャ童貞のくせに恋愛ものなんか書くなよ』
『期待外れもいいところ』
『クソすぎて金と時間の無駄だった』
『とりあえず古本屋に直行』
スマートフォンを握ったままの両手から力が抜ける。
左右の肺が急にしぼんだようになって呼吸が思うようにできない。
冷たい汗が背中を伝い、脇にもにじんでくる。
どうにかして両手を開くと、小刻みに震え、これまで見たことがないほどじっとりとしていた。
椅子から立とうとして膝に力が入らず、バランスを崩して床にへたり込んでしまう。
——やっぱり見なければよかった。
これほどまでに後悔したことはそうそうない。
どうしよう。
どうしたらいい。
椅子や壁につかまりながら立ち上がり、自室を出る。
とにかくどこかへ行きたい。
外に出ると、吹き抜ける風が異常に冷たく感じた。
身震いが止まらない。
何度も何度も、さっきの記事の言葉が頭の中を巡る。
——僕はもう、小説を書かないほうがいいんじゃないか。
あんなふうに罵られてしまうくらいなら、いっそのこと小説なんて世に出さないほうがいいんじゃないか。
ポケットの中でスマートフォンが振動する。
真莉愛からの着信。
「……もしもし」
『あっ、旬くん? やほー』
「……うん…………」
『どうしたの? 何かあった?』
「いや、何も」
『どこにいるの?』
「どこだろ……駅、の近くかな」
『そこで待ってて。すぐに行くから』
「いや、こんな遅い時間だし、だいじょ——」
『大丈夫じゃないでしょッ』
ひときわ強く、耳に響く。
『声が変だもん。すぐ行くから。いつもの駅前の本屋さんで待ってて』
僕の返事を待たずに、通話は切れてしまう。
言われたとおりに書店の前でしばらく待っていると、サイドテールを揺らしながら彼女は走ってやってきた。
「ごめん、遅くなって」
彼女は息を弾ませる。
「いや、むしろこんな時間に僕のほうこそごめん」
「ううん。どうしよう、どこか入ろうか」
僕らはファーストフード店に入って珈琲だけを注文し、隣り合って席についた。
やけに周りの視線が僕らに向かってくるけれど、高校生の男女がこんな遅い時間にいるからだろうか。
「旬くん」
おもむろに両手を握られる。
「わたしでよければ、話して」
真莉愛は真っすぐに僕の目を見てくる。
僕は——ここで彼女に甘えてしまっていいのか。
これから商業作家として生きていくんだったら、こんなことは日常茶飯事になるんじゃないか。
そのたびに僕は真莉愛にすがりつくというのか。
彼女にそんなことを言えば絶対に、甘えたっていい、すがりついたっていいと言うに決まっている。
でも——。
「話しにくいことなの?」
真莉愛が顔をのぞき込んでくる。
「いや、えっと……」
「わかった。大丈夫、今は無理に話さなくても」
「……ありがとう。なんでもないから、本当に」
「旬くん」
急に彼女の両手で頬を挟まれた。
「本当になんでもない人は、ずっと涙を流したりなんかしないんだよ」
僕は、泣いていた。
やけに体が冷たいのは汗が乾いて風に吹かれてしまったからだと思っていたけれど、それだけじゃなかった。
感覚がおかしくなってしまっているのかもしれない。
真莉愛は、そのまま両手で僕の濡れた頬を拭ってくれた。
「話せるときがきたら話してね。絶対だよ」
それは、僕が泣いた理由をだろうか。
それとも——。
「うん」
僕はうなずく。
「絶対話す」
「……約束」
そう言って、真莉愛は左手の小指を差し出してくる。
僕も小指を交わそうとした瞬間——。
「————!」
右頬に柔らかな感触。
真莉愛の唇だと理解するのに数秒かかった。
「旬くんの涙、上書きしといたから」
あっけにとられて、僕は何も言えなかった。
「左も上書きしとく?」
おどけた口調で、真莉愛ははにかみ笑いをする。
「あ、えっと……お願いします……?」
「うふふっ、ちょっとは元気になったみたいだね」
はい、と真莉愛はもう一度左手の小指を僕に向けた。
「約束守ってくれたら、ね?」
「……うん」
僕も小指を交わす。
少しだけ笑えていたかもしれない。
真莉愛の小指の感触が、どうしようもなく優しかった。
***
朝起きると、両目の周りが腫れぼったい感じがした。
小説や漫画ではよく目にしていたけれど、たくさん泣くと本当にこうなるのか、と興味深い。
学校では、前日の中傷記事の内容はなるべく思い出さないようにしようと努めた。
知春も里香も相変わらずのテンションで絡んでくるし、真莉愛もいつもどおり、何事もなかったかのように接してくれた。
あれから僕らはすぐに解散して、帰宅してからもずっと寝落ちするまでLINEで通話した。
何を話したかは覚えていない。たぶん、他愛のないことだったと思う。
放課後、文芸部の部室に向かった。
文学フリマに出品する小説の入稿期限が迫っていて、推敲の続きに取り掛かる。
しばらく経って、敦子先輩が姿を現した。
「頑張ってるのね、旬くん」
いつものように僕の向かいの席に座ると、敦子先輩は肩に掛けていた鞄を足元に置いた。
「あともう少しって感じかしら」
「そうですね。そろそろ推敲が終わるので、ひととおり見直して問題なければ脱稿できそうです」
「がんばってね。文学フリマに出す恋愛ものの短編は、少女漫画みたいなチープな展開にならないといいわね」
敦子先輩の話しぶりに引っかかりを覚える。
僕の目には、そのとき微笑んだ敦子先輩の顔が心なしかわずかに歪んでいるように見えた。
そして敦子先輩は鞄から文芸誌を取り出し、ページをめくり始めた。
毎日のようにネットニュースやSNSで見かける単語だけれど、まさか自分に降りかかるとは夢にも思っていなかった。
『この小説クソすぎる』
『買って損したわ 金返せよ』
『リアル感なさすぎ 幼稚すぎだろ作者 キショいんだけど』
スマートフォンを持つ手が震える。
いくつものオンラインストアやレビューサイトで攻撃的なコメントが残されていた。
ユーザー名からしてすべて同一人物。
いざというときのためにすべてスクリーンショットを撮っておく。
——そこまでの言葉を投げつけないと気が済まないのか?
面白くなかったのかもしれないけれど、クソとかキショいとかまで言われなければならないのか?
百歩譲って作品をけなすのはまだしも、作者自身を攻撃するのはさすがに度が過ぎるのでは?
そのユーザーのTwitterのプロフィール欄を見ると、アイコンもヘッダーも初期状態のままで何も設定されておらず、フォロワーはゼロ。
おそらく、捨てアカウントというやつだろう。
ツイートをさかのぼると、プロもアマも問わず数多の小説に対しての文句や罵倒、誹謗中傷ともいえるほどの言葉の数々が目についた。
これでよく非公開アカウントにしなかったものだと不思議で仕方がない。
非公開にすれば許されるというものではないけれど。
世の中にはこういったアカウントも実在するということが身をもって知れた。
ツイートの一つに、ブログ記事へのリンクを発見する。
タイトルからして僕の作品に対する感想らしい。
見てはいけない、と直感的に体が警鐘を鳴らしていたけれど、好奇心が勝ってリンクを開いてしまう。
『ストーリー展開になんのひねりもなくて才能がない』
『文章が平坦すぎて最初の数ページで飽きてくる』
『誰かの作品を盗んできたんじゃないかと思うくらい個性が感じられない』
『少女漫画かよ』
『こんなゴミが銀賞受賞とか出版社も終わってる』
『作者はクソ陰キャ童貞のくせに恋愛ものなんか書くなよ』
『期待外れもいいところ』
『クソすぎて金と時間の無駄だった』
『とりあえず古本屋に直行』
スマートフォンを握ったままの両手から力が抜ける。
左右の肺が急にしぼんだようになって呼吸が思うようにできない。
冷たい汗が背中を伝い、脇にもにじんでくる。
どうにかして両手を開くと、小刻みに震え、これまで見たことがないほどじっとりとしていた。
椅子から立とうとして膝に力が入らず、バランスを崩して床にへたり込んでしまう。
——やっぱり見なければよかった。
これほどまでに後悔したことはそうそうない。
どうしよう。
どうしたらいい。
椅子や壁につかまりながら立ち上がり、自室を出る。
とにかくどこかへ行きたい。
外に出ると、吹き抜ける風が異常に冷たく感じた。
身震いが止まらない。
何度も何度も、さっきの記事の言葉が頭の中を巡る。
——僕はもう、小説を書かないほうがいいんじゃないか。
あんなふうに罵られてしまうくらいなら、いっそのこと小説なんて世に出さないほうがいいんじゃないか。
ポケットの中でスマートフォンが振動する。
真莉愛からの着信。
「……もしもし」
『あっ、旬くん? やほー』
「……うん…………」
『どうしたの? 何かあった?』
「いや、何も」
『どこにいるの?』
「どこだろ……駅、の近くかな」
『そこで待ってて。すぐに行くから』
「いや、こんな遅い時間だし、だいじょ——」
『大丈夫じゃないでしょッ』
ひときわ強く、耳に響く。
『声が変だもん。すぐ行くから。いつもの駅前の本屋さんで待ってて』
僕の返事を待たずに、通話は切れてしまう。
言われたとおりに書店の前でしばらく待っていると、サイドテールを揺らしながら彼女は走ってやってきた。
「ごめん、遅くなって」
彼女は息を弾ませる。
「いや、むしろこんな時間に僕のほうこそごめん」
「ううん。どうしよう、どこか入ろうか」
僕らはファーストフード店に入って珈琲だけを注文し、隣り合って席についた。
やけに周りの視線が僕らに向かってくるけれど、高校生の男女がこんな遅い時間にいるからだろうか。
「旬くん」
おもむろに両手を握られる。
「わたしでよければ、話して」
真莉愛は真っすぐに僕の目を見てくる。
僕は——ここで彼女に甘えてしまっていいのか。
これから商業作家として生きていくんだったら、こんなことは日常茶飯事になるんじゃないか。
そのたびに僕は真莉愛にすがりつくというのか。
彼女にそんなことを言えば絶対に、甘えたっていい、すがりついたっていいと言うに決まっている。
でも——。
「話しにくいことなの?」
真莉愛が顔をのぞき込んでくる。
「いや、えっと……」
「わかった。大丈夫、今は無理に話さなくても」
「……ありがとう。なんでもないから、本当に」
「旬くん」
急に彼女の両手で頬を挟まれた。
「本当になんでもない人は、ずっと涙を流したりなんかしないんだよ」
僕は、泣いていた。
やけに体が冷たいのは汗が乾いて風に吹かれてしまったからだと思っていたけれど、それだけじゃなかった。
感覚がおかしくなってしまっているのかもしれない。
真莉愛は、そのまま両手で僕の濡れた頬を拭ってくれた。
「話せるときがきたら話してね。絶対だよ」
それは、僕が泣いた理由をだろうか。
それとも——。
「うん」
僕はうなずく。
「絶対話す」
「……約束」
そう言って、真莉愛は左手の小指を差し出してくる。
僕も小指を交わそうとした瞬間——。
「————!」
右頬に柔らかな感触。
真莉愛の唇だと理解するのに数秒かかった。
「旬くんの涙、上書きしといたから」
あっけにとられて、僕は何も言えなかった。
「左も上書きしとく?」
おどけた口調で、真莉愛ははにかみ笑いをする。
「あ、えっと……お願いします……?」
「うふふっ、ちょっとは元気になったみたいだね」
はい、と真莉愛はもう一度左手の小指を僕に向けた。
「約束守ってくれたら、ね?」
「……うん」
僕も小指を交わす。
少しだけ笑えていたかもしれない。
真莉愛の小指の感触が、どうしようもなく優しかった。
***
朝起きると、両目の周りが腫れぼったい感じがした。
小説や漫画ではよく目にしていたけれど、たくさん泣くと本当にこうなるのか、と興味深い。
学校では、前日の中傷記事の内容はなるべく思い出さないようにしようと努めた。
知春も里香も相変わらずのテンションで絡んでくるし、真莉愛もいつもどおり、何事もなかったかのように接してくれた。
あれから僕らはすぐに解散して、帰宅してからもずっと寝落ちするまでLINEで通話した。
何を話したかは覚えていない。たぶん、他愛のないことだったと思う。
放課後、文芸部の部室に向かった。
文学フリマに出品する小説の入稿期限が迫っていて、推敲の続きに取り掛かる。
しばらく経って、敦子先輩が姿を現した。
「頑張ってるのね、旬くん」
いつものように僕の向かいの席に座ると、敦子先輩は肩に掛けていた鞄を足元に置いた。
「あともう少しって感じかしら」
「そうですね。そろそろ推敲が終わるので、ひととおり見直して問題なければ脱稿できそうです」
「がんばってね。文学フリマに出す恋愛ものの短編は、少女漫画みたいなチープな展開にならないといいわね」
敦子先輩の話しぶりに引っかかりを覚える。
僕の目には、そのとき微笑んだ敦子先輩の顔が心なしかわずかに歪んでいるように見えた。
そして敦子先輩は鞄から文芸誌を取り出し、ページをめくり始めた。
(つづく)
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