21. 敦子の想い
文芸部の部室に向かうまでの道のりがひどく長く感じる。
木製のドアを開くと、部室内には外の光が漏れ入っていた。
ここで交わした数々の会話。
去年の今ごろは小説や詩のことで話が弾んでいた。
文芸部部長であり、たった一人の文芸部仲間。
彼女はいつもにこやかに、僕の話を聞いてくれていた。
それが、今は——。
「待たせてごめんなさいね」
背中越しに敦子先輩の声が響く。
僕が振り向くと、先輩は窓際に立つ僕の目の前まで歩み寄ってきた。
「昨日の返事を聞かせてもらえるのかしら?」
本当にそう思っているのだろうか。
最近だんだんと、先輩が何を考えているのかわからなくなってきた。
でも今日は、はっきりさせないといけない。
「敦子先輩」
僕は声を絞り出す。
「のりたまさんですか?」
その瞬間、先輩の両目が少し見開いた。
真っすぐに見つめてくる。
そして彼女はわずかにまぶたを伏せて、口を開いた。
「そうよ。《supernoritama2》っていうアカウントは私のものよ。今ごろ気づいたのかしら」
「それだけじゃないですよね?」
敦子先輩は再び目を開く。
まばたきもせず、鋭い眼光をたたえて僕の目を見据えてくる。
「これは……間違っていたら本当にすみません。でも、確かめておきたくて。僕のデビュー作を非難するようなブログ記事を二つと、レビューサイトやSNSでも誹謗中傷に近い発言を多数。そのアカウントは——」
僕がアカウント名を口にした瞬間、敦子先輩は少しだけのけ反った。
でも、無言。
それは肯定に等しかった。
予想どおりだったけれど、胸にずしんとくるものがある。
「先輩……どうして……」
彼女は笑みを顔に張りつけて、
「私は、旬くんのことが大好きなのよ」
と口にした。
「でもね、ときどき壊したくなるくらい大嫌いになるの」
敦子先輩は視線を窓の外に向ける。
「去年の春にキミが入部したとき、本当に嬉しかったわ。小説のことですごく盛り上がれたし、なによりもう一人ぼっちじゃなくていいんだ、って。それで一緒に活動するうちに、旬くんのことをどんどん好きになっていったの」
でもね、と敦子先輩は続ける。
「旬くんが銀賞を獲ったとき、私の何かが変わった気がするのよね。たぶん……嫉妬なんだと思う。昨日も言ったけど、キミには才能があるってずっと思ってたの。白金式部っていうペンネームで活動するのをずっと見てきたし、作品のPVとかフォロワーとかも順調に伸びるのを見てきたから。でも、キミが新人賞に投稿した後、選考通過するたびに『私より筆歴は浅いのに、どうして』『私のほうがずっと小説を書いてきたはずなのに、どうして』って。いつも一次選考落ちの私とは、持って生まれた才能が違うんだろうなって」
僕は何も言葉を返せない。
小説の新人賞では、誰が書いたかではなくどんな作品なのかが評価されるものだ。
厳しいけれど、選ばれるものと選ばれないものがはっきりと決まる世界。
そのことは敦子先輩ももちろん理解しているはず。
「キミが銀賞を獲ったとき、正直——死ねばいいのにって思っちゃった」
ごめんね、と敦子先輩は小さく漏らす。
「もちろんキミに直接言うような真似はしなかったけど。大好きだったはずの旬くんが憎らしくなっちゃって。しばらく一人でもやもやしてたんだけど、でもやっぱり会って話してると、キミのことが大好きなんだなって思えてたのよね——あの子が出しゃばりさえしなければ」
声のトーンが落ちる。
「存在には気づいてたんだけどね。公園で旬くんと二人で仲良さそうにしているのを見かけて、もうダメだった。殺したくなるくらい憎たらしかった。なんで私じゃないの、私だけのものだったはずなのに、って。何度も頭の中を巡って気が狂いそうになったの。プレゼントしようと思ってた万年筆も捨ててしまおうと思ったけど……結局渡したのよ」
あの万年筆は、今でも僕の部屋にある。
包装はまだ解いていない。
「ショッピングモールの近くで二人が抱き合ってるところを目撃したのがトドメだったわね。たぶん、私のことは気づいてなかったんでしょう? 二人だけの世界だったものね。あのとき、はっきりとわかったわ。私はもう終わってるんだって。大好きな人は奪われて、小説でも追い抜かれて」
窓の外をにらみつけるようにする敦子先輩の横顔は、僕が知っている彼女の表情とは違っていた。
「ドス黒い何かがどんどん膨れ上がってきて、このままだと私は壊れるって思ったのよ。頭がおかしくなって気が狂ってしまいそうだった。だから、このドス黒いものをどこかに吐き出さなきゃって。気づいたらSNSで捨てアカウントを作ってたわ。そこからは早かったわね。あとは、旬くんが知っているとおりよ」
これで話すことは終わり、とでも言うように敦子先輩は僕のほうへ向き直った。
先ほどまでの険しい表情とは違って、いつもの彼女の穏やかさが戻ってきているように見えた。
「新人賞を獲って書籍化も決まって、Web連載も順調で、しかも可愛い彼女までできたなんて、少しくらいちょっかい出しても許されるはず——だなんて思ってたけど、それは私の考えが甘かったわ。書いてしまったことは謝るし、全部削除する」
「——あの、敦子先輩」
ここで僕が「気持ちに気づけなくてごめんなさい」と謝るのは違う気がする。
そんなことをすれば彼女のプライドはもっと傷ついてしまう。
僕にいったい何ができたというんだろう。
彼女の気持ちに応えることが正解だったのか。
でもそれは——やっぱり違う気がする。
「今まで、ありがとうございました」
無言。
敦子先輩の両頬を涙が伝う。
「旬くん」
声が震えている。
「そんなのって……」
堪えるように、先輩は唇を引き結ぶ。
そして一つうなずいた。
「私は今日で退部するわ。旬くんの前にも姿を現さないようにするから」
僕は何も言わずに首を縦に振った。
敦子先輩はドアのほうへ歩く。
そして背中越しに、
「お幸せにね」
と言葉を向けてきた。
木製のドアがきしむ音を立てる。
高校に入学してからずっと追いかけてきた背中は、もう見えなくなってしまった。
これで一つの区切りがついたのだと思うと、やるせなさが全身を襲う。
僕にはまだやるべきことが残っている。
放課後、僕は彼女と話し合って、もう一つの区切りをつける必要がある。
たとえ別れることになっても、それはもう受け入れるしかないと心に決めた。
木製のドアを開くと、部室内には外の光が漏れ入っていた。
ここで交わした数々の会話。
去年の今ごろは小説や詩のことで話が弾んでいた。
文芸部部長であり、たった一人の文芸部仲間。
彼女はいつもにこやかに、僕の話を聞いてくれていた。
それが、今は——。
「待たせてごめんなさいね」
背中越しに敦子先輩の声が響く。
僕が振り向くと、先輩は窓際に立つ僕の目の前まで歩み寄ってきた。
「昨日の返事を聞かせてもらえるのかしら?」
本当にそう思っているのだろうか。
最近だんだんと、先輩が何を考えているのかわからなくなってきた。
でも今日は、はっきりさせないといけない。
「敦子先輩」
僕は声を絞り出す。
「のりたまさんですか?」
その瞬間、先輩の両目が少し見開いた。
真っすぐに見つめてくる。
そして彼女はわずかにまぶたを伏せて、口を開いた。
「そうよ。《supernoritama2》っていうアカウントは私のものよ。今ごろ気づいたのかしら」
「それだけじゃないですよね?」
敦子先輩は再び目を開く。
まばたきもせず、鋭い眼光をたたえて僕の目を見据えてくる。
「これは……間違っていたら本当にすみません。でも、確かめておきたくて。僕のデビュー作を非難するようなブログ記事を二つと、レビューサイトやSNSでも誹謗中傷に近い発言を多数。そのアカウントは——」
僕がアカウント名を口にした瞬間、敦子先輩は少しだけのけ反った。
でも、無言。
それは肯定に等しかった。
予想どおりだったけれど、胸にずしんとくるものがある。
「先輩……どうして……」
彼女は笑みを顔に張りつけて、
「私は、旬くんのことが大好きなのよ」
と口にした。
「でもね、ときどき壊したくなるくらい大嫌いになるの」
敦子先輩は視線を窓の外に向ける。
「去年の春にキミが入部したとき、本当に嬉しかったわ。小説のことですごく盛り上がれたし、なによりもう一人ぼっちじゃなくていいんだ、って。それで一緒に活動するうちに、旬くんのことをどんどん好きになっていったの」
でもね、と敦子先輩は続ける。
「旬くんが銀賞を獲ったとき、私の何かが変わった気がするのよね。たぶん……嫉妬なんだと思う。昨日も言ったけど、キミには才能があるってずっと思ってたの。白金式部っていうペンネームで活動するのをずっと見てきたし、作品のPVとかフォロワーとかも順調に伸びるのを見てきたから。でも、キミが新人賞に投稿した後、選考通過するたびに『私より筆歴は浅いのに、どうして』『私のほうがずっと小説を書いてきたはずなのに、どうして』って。いつも一次選考落ちの私とは、持って生まれた才能が違うんだろうなって」
僕は何も言葉を返せない。
小説の新人賞では、誰が書いたかではなくどんな作品なのかが評価されるものだ。
厳しいけれど、選ばれるものと選ばれないものがはっきりと決まる世界。
そのことは敦子先輩ももちろん理解しているはず。
「キミが銀賞を獲ったとき、正直——死ねばいいのにって思っちゃった」
ごめんね、と敦子先輩は小さく漏らす。
「もちろんキミに直接言うような真似はしなかったけど。大好きだったはずの旬くんが憎らしくなっちゃって。しばらく一人でもやもやしてたんだけど、でもやっぱり会って話してると、キミのことが大好きなんだなって思えてたのよね——あの子が出しゃばりさえしなければ」
声のトーンが落ちる。
「存在には気づいてたんだけどね。公園で旬くんと二人で仲良さそうにしているのを見かけて、もうダメだった。殺したくなるくらい憎たらしかった。なんで私じゃないの、私だけのものだったはずなのに、って。何度も頭の中を巡って気が狂いそうになったの。プレゼントしようと思ってた万年筆も捨ててしまおうと思ったけど……結局渡したのよ」
あの万年筆は、今でも僕の部屋にある。
包装はまだ解いていない。
「ショッピングモールの近くで二人が抱き合ってるところを目撃したのがトドメだったわね。たぶん、私のことは気づいてなかったんでしょう? 二人だけの世界だったものね。あのとき、はっきりとわかったわ。私はもう終わってるんだって。大好きな人は奪われて、小説でも追い抜かれて」
窓の外をにらみつけるようにする敦子先輩の横顔は、僕が知っている彼女の表情とは違っていた。
「ドス黒い何かがどんどん膨れ上がってきて、このままだと私は壊れるって思ったのよ。頭がおかしくなって気が狂ってしまいそうだった。だから、このドス黒いものをどこかに吐き出さなきゃって。気づいたらSNSで捨てアカウントを作ってたわ。そこからは早かったわね。あとは、旬くんが知っているとおりよ」
これで話すことは終わり、とでも言うように敦子先輩は僕のほうへ向き直った。
先ほどまでの険しい表情とは違って、いつもの彼女の穏やかさが戻ってきているように見えた。
「新人賞を獲って書籍化も決まって、Web連載も順調で、しかも可愛い彼女までできたなんて、少しくらいちょっかい出しても許されるはず——だなんて思ってたけど、それは私の考えが甘かったわ。書いてしまったことは謝るし、全部削除する」
「——あの、敦子先輩」
ここで僕が「気持ちに気づけなくてごめんなさい」と謝るのは違う気がする。
そんなことをすれば彼女のプライドはもっと傷ついてしまう。
僕にいったい何ができたというんだろう。
彼女の気持ちに応えることが正解だったのか。
でもそれは——やっぱり違う気がする。
「今まで、ありがとうございました」
無言。
敦子先輩の両頬を涙が伝う。
「旬くん」
声が震えている。
「そんなのって……」
堪えるように、先輩は唇を引き結ぶ。
そして一つうなずいた。
「私は今日で退部するわ。旬くんの前にも姿を現さないようにするから」
僕は何も言わずに首を縦に振った。
敦子先輩はドアのほうへ歩く。
そして背中越しに、
「お幸せにね」
と言葉を向けてきた。
木製のドアがきしむ音を立てる。
高校に入学してからずっと追いかけてきた背中は、もう見えなくなってしまった。
これで一つの区切りがついたのだと思うと、やるせなさが全身を襲う。
僕にはまだやるべきことが残っている。
放課後、僕は彼女と話し合って、もう一つの区切りをつける必要がある。
たとえ別れることになっても、それはもう受け入れるしかないと心に決めた。
(つづく)
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