20. 転機
昼休み、置きっぱなしにしていた参考文献を取りに部室へ行くと、敦子先輩がいた。
いつものように、文芸誌を広げている。
僕が来たことに気づくと、先輩は顔を上げて微笑んだ。
「おつかれさま、旬くん」
文芸誌を長机の上に置いて敦子先輩は立ち上がり、僕のほうへ歩み寄ってくる。
「この間の文学フリマ、ありがとうね」
「いえ、こちらこそ」
「大変だったわね、いろいろと」
僕の目の前に立ち、敦子先輩は怪しく笑う。
「あれから、彼女とはどんな調子かしら」
答えに詰まる。
先輩もあの場に居合わせていたので、わかった上で訊いているのだろう。
「……何も話せてないですね。というか、一度も会ってないです」
「あらあら。やっぱり彼女、傷ついちゃったのかしらね。気の毒だわ」
言葉とは裏腹に、先輩は楽しげな表情を浮かべる。
そして、敦子先輩に両肩をつかまれた。
「旬くんも。いろいろ重なって大変ね」
「いえ……僕は……」
敦子先輩と目を合わせられない。
言葉を交わすほどに、もやもやとしたものが胸の内に広がっていくのを感じる。
「旬くん、考えてみて。ずっと黙っていたからといって、カレシが自分の推しだってわかって邪険な態度を取ったりするかしら? 普通は、喜ぶものじゃない?」
喫茶まほろばでのハルさんとの会話を思い出す。
ハルさんも似たようなことを話していた。
「どう……なんですかね」
そういう捉え方だってあるのかもしれない。
だからといって、自分がしたことを正当化するような真似はしたくない。
「私だったら、嬉しくて仕方がないわ。すごい才能の持ち主だからこそ推すんだし、それが自分のカレシだなんて、ますます好きになっちゃう。少なくとも私は、憎らしいくらい大好きになったわ」
「えっ? それは、どういう……」
「私だったら、旬くんの才能を一番よく理解してあげられるのに」
その瞬間、抱きしめられた。
敦子先輩の香りが、温もりが、自分の体に重なる。
「私は、旬くんのことが大好きなの」
耳元で囁かれる。
「去年からずっと、キミのことを好きだったの」
何も言葉を返せない。
敦子先輩の顔が、吐息のかかるほど間近にくる。
「あの子とじゃなくて、私と付き合いましょう?」
惑わせるような目。
その瞳の奥が読めない。
「私だったら、旬くんを煩わせるような真似はしないわ」
不意に思い出す。
例のネガティブ記事。
非難アカウント。
そして、のりたまさんのことを。
僕は敦子先輩を押しのけた。
「旬くん……?」
「あ、えっと……僕……失礼しますっ」
「旬くん!」
僕は部室を飛び出す。
そのまま駆け出して昇降口、そして学校の外へ。
もう何もかもが嫌だった。
どこかに消えてしまいたかった。
***
「おー、やっぱここだったわ」
喫茶まほろばのドアが開き、知春の声が響く。
隣には里香もいた。
「シュンちゃん、忘れもんだぜ」
ほれ、と知春は僕の鞄を差し出してくる。
「あ……ごめん」
「いいってことよ。んで? 今度は何があったん?」
ハルさんの勧めで、テーブル席に移動する。
僕の向かい側に知春、その隣に里香。
敦子先輩との出来事を話すと、知春は「ほえー」と声を漏らした。
「なんつーかさ……シュンちゃん、マジ大変だな」
「モテモテじゃん、御手洗くん」
「いやリカ、それはちょっとちげーんだよ」
「えっ、何が違うの?」
知春が例の非難アカウントやネガティブ記事のことを話すと、里香の表情が曇った。
そして実体は敦子先輩である可能性が高いことを僕が口にすると「そんなのってないじゃん!」と里香は声を上げた。
「だから言ったろ。なーんかいろいろ複雑なわけよ」
「そっかあ……しかもまーちゃんのことも……」
僕は思わず体が反応してしまう。
「そうだリカ、なんか聞いてねーの? マリアちゃんのこと」
「うーん……こないだのフリマ? の話は聞いたんだけど、詳しいことまではわかんない。あんまり話したそうな感じじゃなかったし、無理に訊くのもちょっとね。でもなんとなくだけど、ここ最近まーちゃん……思い詰めてるような感じはするかな」
「マジかよ……それでシュンちゃんのこともガン無視ってわけか?」
「どうなんだろ、あたしと話しててもたまに上の空みたいなことがあるけどさ。でもあたしが見る限りは、別に怒ってるわけじゃないっぽいんだよね、なんとなくだけど」
「二人がさ」
僕が口を挟むと、知春と里香は何も言わずに僕のほうへ顔を向けた。
「二人がもし真莉愛と同じ立場だったら、どう思う?」
知春も里香も目を逸らさず、考えるようにする。
そして里香が口を開いた。
「あたしだったら、別にそれほど気にしないかなぁ。さすがに少しびっくりはするかもしれないけどね。あたしも御手洗くんがまーちゃんの推しの作家だって知ったときはびっくりしたし。でも、それだけかな。だからって嫌いになったりとかはないと思う」
「俺もそうかも。ただ、黙ってたことは謝ってほしいってくらいか。やっぱ、隠しごとはお互い気分よくねーじゃん? だけど、一度ごめんなさいしたらそれでおしまいじゃね」
「あー、でもでもぉ、御手洗くん本人からじゃなくて文芸部の先輩の口から聞いたってのはちょっと嫌かも。その人、一緒にいたんでしょ? 部活の先輩だからっていうのはわかるけどさ、あたしがまーちゃんだったら、そんな大事なこと自分は何も知らなかったのに先輩は知ってたっていうのはあんまりいい気しないかな。御手洗くんはさ」
里香は僕のほうに向き直り、声のトーンを少しだけ落として「御手洗くんはさ」と訊いてきた。
「まーちゃんのこと、好きなんでしょ?」
「それは、うん。僕は真莉愛のことが好き。大好き」
里香は茶化すでもなく、ふざけるでもなく、一つうなずいた。
「よかった。その気持ちがしっかりしてれば大丈夫なんじゃないかな。まーちゃんもたぶん、同じだと思うんだよね」
だってさ、と里香は表情がやわらぐ。
「まーちゃん、いっつも御手洗くんのこと話してるもん。たぶん本人はそのつもりはないんだろうけど。すっごい嬉しそうっていうか、楽しそうにさ」
「まあ、心配すんなってことだな!」
知春が大きく笑う。
「マリアちゃんのこと信じてればオールオッケーってわけよ!」
「そうだよ。たぶんさ、まーちゃん待ってんじゃない? 御手洗くんのこと」
「だな。シュンちゃん、すぐ連絡してみなよ」
促されるまま、僕はスマートフォンを取り出す。
LINEを開いて真莉愛とのチャットを見返すと、やり取りは文学フリマの前日までで止まっていた。
彼女へのメッセージを書いては消して、それを何度も繰り返す。
——僕は。
真莉愛のことを信じ切れていなかったのだろうか。
『会って話したい 明日の放課後』
結局、送ったのはシンプルなメッセージ。
すぐに既読マークがついた。
心拍数が上がってくる。
彼女がどんな反応を返すか——。
「送ったん?」
知春の声に、僕はうなずいた。
そして、スマートフォンが振動する。
真莉愛からの返信——黒猫の『OK』スタンプ。
強張っていた体がふっと緩んだ。
「明日、真莉愛と会って話すよ」
僕がそう言うと、知春と里香は顔を見合わせた。
そして僕のほうを向いて、二人で同時に親指を立てる。
僕にはもう一人、連絡を取るべき人がいた。
『明日の昼休みに部室で話せますか?』
LINEでメッセージを送る。
一分と待たず、すぐに返信がきた。
『もちろん』
あのとき有耶無耶なまま飛び出してしまった僕は、放課後に真莉愛と会うまえに、文芸部部長と話してはっきりさせておく必要があった。
いつものように、文芸誌を広げている。
僕が来たことに気づくと、先輩は顔を上げて微笑んだ。
「おつかれさま、旬くん」
文芸誌を長机の上に置いて敦子先輩は立ち上がり、僕のほうへ歩み寄ってくる。
「この間の文学フリマ、ありがとうね」
「いえ、こちらこそ」
「大変だったわね、いろいろと」
僕の目の前に立ち、敦子先輩は怪しく笑う。
「あれから、彼女とはどんな調子かしら」
答えに詰まる。
先輩もあの場に居合わせていたので、わかった上で訊いているのだろう。
「……何も話せてないですね。というか、一度も会ってないです」
「あらあら。やっぱり彼女、傷ついちゃったのかしらね。気の毒だわ」
言葉とは裏腹に、先輩は楽しげな表情を浮かべる。
そして、敦子先輩に両肩をつかまれた。
「旬くんも。いろいろ重なって大変ね」
「いえ……僕は……」
敦子先輩と目を合わせられない。
言葉を交わすほどに、もやもやとしたものが胸の内に広がっていくのを感じる。
「旬くん、考えてみて。ずっと黙っていたからといって、カレシが自分の推しだってわかって邪険な態度を取ったりするかしら? 普通は、喜ぶものじゃない?」
喫茶まほろばでのハルさんとの会話を思い出す。
ハルさんも似たようなことを話していた。
「どう……なんですかね」
そういう捉え方だってあるのかもしれない。
だからといって、自分がしたことを正当化するような真似はしたくない。
「私だったら、嬉しくて仕方がないわ。すごい才能の持ち主だからこそ推すんだし、それが自分のカレシだなんて、ますます好きになっちゃう。少なくとも私は、憎らしいくらい大好きになったわ」
「えっ? それは、どういう……」
「私だったら、旬くんの才能を一番よく理解してあげられるのに」
その瞬間、抱きしめられた。
敦子先輩の香りが、温もりが、自分の体に重なる。
「私は、旬くんのことが大好きなの」
耳元で囁かれる。
「去年からずっと、キミのことを好きだったの」
何も言葉を返せない。
敦子先輩の顔が、吐息のかかるほど間近にくる。
「あの子とじゃなくて、私と付き合いましょう?」
惑わせるような目。
その瞳の奥が読めない。
「私だったら、旬くんを煩わせるような真似はしないわ」
不意に思い出す。
例のネガティブ記事。
非難アカウント。
そして、のりたまさんのことを。
僕は敦子先輩を押しのけた。
「旬くん……?」
「あ、えっと……僕……失礼しますっ」
「旬くん!」
僕は部室を飛び出す。
そのまま駆け出して昇降口、そして学校の外へ。
もう何もかもが嫌だった。
どこかに消えてしまいたかった。
***
「おー、やっぱここだったわ」
喫茶まほろばのドアが開き、知春の声が響く。
隣には里香もいた。
「シュンちゃん、忘れもんだぜ」
ほれ、と知春は僕の鞄を差し出してくる。
「あ……ごめん」
「いいってことよ。んで? 今度は何があったん?」
ハルさんの勧めで、テーブル席に移動する。
僕の向かい側に知春、その隣に里香。
敦子先輩との出来事を話すと、知春は「ほえー」と声を漏らした。
「なんつーかさ……シュンちゃん、マジ大変だな」
「モテモテじゃん、御手洗くん」
「いやリカ、それはちょっとちげーんだよ」
「えっ、何が違うの?」
知春が例の非難アカウントやネガティブ記事のことを話すと、里香の表情が曇った。
そして実体は敦子先輩である可能性が高いことを僕が口にすると「そんなのってないじゃん!」と里香は声を上げた。
「だから言ったろ。なーんかいろいろ複雑なわけよ」
「そっかあ……しかもまーちゃんのことも……」
僕は思わず体が反応してしまう。
「そうだリカ、なんか聞いてねーの? マリアちゃんのこと」
「うーん……こないだのフリマ? の話は聞いたんだけど、詳しいことまではわかんない。あんまり話したそうな感じじゃなかったし、無理に訊くのもちょっとね。でもなんとなくだけど、ここ最近まーちゃん……思い詰めてるような感じはするかな」
「マジかよ……それでシュンちゃんのこともガン無視ってわけか?」
「どうなんだろ、あたしと話しててもたまに上の空みたいなことがあるけどさ。でもあたしが見る限りは、別に怒ってるわけじゃないっぽいんだよね、なんとなくだけど」
「二人がさ」
僕が口を挟むと、知春と里香は何も言わずに僕のほうへ顔を向けた。
「二人がもし真莉愛と同じ立場だったら、どう思う?」
知春も里香も目を逸らさず、考えるようにする。
そして里香が口を開いた。
「あたしだったら、別にそれほど気にしないかなぁ。さすがに少しびっくりはするかもしれないけどね。あたしも御手洗くんがまーちゃんの推しの作家だって知ったときはびっくりしたし。でも、それだけかな。だからって嫌いになったりとかはないと思う」
「俺もそうかも。ただ、黙ってたことは謝ってほしいってくらいか。やっぱ、隠しごとはお互い気分よくねーじゃん? だけど、一度ごめんなさいしたらそれでおしまいじゃね」
「あー、でもでもぉ、御手洗くん本人からじゃなくて文芸部の先輩の口から聞いたってのはちょっと嫌かも。その人、一緒にいたんでしょ? 部活の先輩だからっていうのはわかるけどさ、あたしがまーちゃんだったら、そんな大事なこと自分は何も知らなかったのに先輩は知ってたっていうのはあんまりいい気しないかな。御手洗くんはさ」
里香は僕のほうに向き直り、声のトーンを少しだけ落として「御手洗くんはさ」と訊いてきた。
「まーちゃんのこと、好きなんでしょ?」
「それは、うん。僕は真莉愛のことが好き。大好き」
里香は茶化すでもなく、ふざけるでもなく、一つうなずいた。
「よかった。その気持ちがしっかりしてれば大丈夫なんじゃないかな。まーちゃんもたぶん、同じだと思うんだよね」
だってさ、と里香は表情がやわらぐ。
「まーちゃん、いっつも御手洗くんのこと話してるもん。たぶん本人はそのつもりはないんだろうけど。すっごい嬉しそうっていうか、楽しそうにさ」
「まあ、心配すんなってことだな!」
知春が大きく笑う。
「マリアちゃんのこと信じてればオールオッケーってわけよ!」
「そうだよ。たぶんさ、まーちゃん待ってんじゃない? 御手洗くんのこと」
「だな。シュンちゃん、すぐ連絡してみなよ」
促されるまま、僕はスマートフォンを取り出す。
LINEを開いて真莉愛とのチャットを見返すと、やり取りは文学フリマの前日までで止まっていた。
彼女へのメッセージを書いては消して、それを何度も繰り返す。
——僕は。
真莉愛のことを信じ切れていなかったのだろうか。
『会って話したい 明日の放課後』
結局、送ったのはシンプルなメッセージ。
すぐに既読マークがついた。
心拍数が上がってくる。
彼女がどんな反応を返すか——。
「送ったん?」
知春の声に、僕はうなずいた。
そして、スマートフォンが振動する。
真莉愛からの返信——黒猫の『OK』スタンプ。
強張っていた体がふっと緩んだ。
「明日、真莉愛と会って話すよ」
僕がそう言うと、知春と里香は顔を見合わせた。
そして僕のほうを向いて、二人で同時に親指を立てる。
僕にはもう一人、連絡を取るべき人がいた。
『明日の昼休みに部室で話せますか?』
LINEでメッセージを送る。
一分と待たず、すぐに返信がきた。
『もちろん』
あのとき有耶無耶なまま飛び出してしまった僕は、放課後に真莉愛と会うまえに、文芸部部長と話してはっきりさせておく必要があった。
(つづく)
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